吉備の中山を守る会は備前一宮 吉備津彦神社周辺と吉備の中山の清掃・整備活動を中心に、史跡・遺跡・伝承を地域とともに伝える活動をしています。

 
●AD789 - AD1191頃 僧侶が政治に介入し仏教は堕落 → 代わって山上仏教が興隆



795

報恩大師が没する→報恩大師産湯の井戸
1129
備前の守平忠盛が瀬戸内海の海賊を追討した
1132
平忠盛が内昇殿を許された
1159
平治の乱 − この頃、備前の難波経遠(なんばつねとう).備中の妹尾兼康(そのおかねやす)らが平家の家人として活躍
1168
御野堰料(六丁樋のこと)という言葉が残る→座主川用水
1169
この年に作られた備中足守庄絵図が神護寺に現存
1175
法然が浄土宗を開く
1177
鹿ヶ谷事件により藤原成親(ふじわらのなりちか)が備前に流され殺された→藤原成親遺跡、成親供養塔
1179
関白藤原基房(ふじわらのもとふさ)が備前湯迫(ゆば)に流される
1180
妹尾太郎兼康が南都の騒乱の鎮圧に出向く
東大寺炎上 − 翌年.俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が造東大寺の大勧進職になる
1183
妹尾兼康、木曽義仲軍と戦い討ち死に→辛川合戦、笹ヶ瀬古戦場
1184
佐々木盛綱が平行盛を藤戸に破る
1191
栄西(えいさい)が中国から帰国して禅宗(ぜんしゅう)(臨済宗(りんざいしゅう))を広める

●AD1185 - AD1333頃 源頼朝が鎌倉に幕府を開き、北条高時の滅亡に至るまで



1193

備前国が造東大寺の知行国となる→吉備津宮常行堂跡
1206
俊乗坊重源死す − 86歳
1211
快慶が牛窓町千手東寿院の阿弥陀如来像を作る
1212
浄土宗の開祖法然死す − 80歳
1214
栄西が「喫茶養生記」をあらわす
1215
臨済宗の開祖栄西死す − 75歳
1221
承久の変 − 後鳥羽上皇の応じ頼仁親王が備前児島に流される
1262
円爾弁円が臨済宗を備中にひろめ井山宝福寺が県下初の禅寺として開創
1264
頼仁親王が備前児島の配所で死す
1278
時宗の開祖一遍上人が備前地方に遊行布教
1285
英田町の長福寺に三重塔建造 − 県下最古の三重塔
1332
後醍醐天皇が隠岐遷幸の途次、児島高徳が院庄で桜樹を削り忠臣を奏上
1333
松田盛朝が備前守護になる

●AD1336 - AD1392頃 南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した時代




1336

足利尊氏は京都に敗れ九州へ、これを追って新田郡が備前に、児島高徳も熊山に挙兵
1336
足利直義の軍勢が新田の先方大井田氏経を備中福山城に破る→唐川の宿
1336
後醍醐天皇が吉野に皇居をうつし、南北朝の対立がはじまった
1341
大覚大僧正の布教により、法華宗が県下に普及しはじめる→大覚堂
1350
柵原町の本山寺の本堂が造営される
1371
備前福岡は繁華な商業集落として都市的な発達が進む
1392
南北両朝が合一した

●AD1392 - AD1573頃 足利氏が政権を握り京都室町に幕府を開いた時代



1420

画僧雪舟が備中赤浜に生まれる
1425
備中吉備津宮の現存の本殿(国宝)と拝殿(国宝)が造営される
1467
応仁の乱勃発
1467
画僧雪舟が明国に留学
1471
備前吉備津宮の門前町が発達しはじめる
1484
山名の軍勢が備前守護代浦上基景を福岡城に破る − このとき、松田元成は討ち死に
1506
画僧雪舟が死す − 87歳
1534
宇喜多能家が邑久郡砥石城で島村豊後守の襲撃を受けて自殺
1549
宇喜多直家が邑久郡乙子城から上道郡奈良部城へ本拠を移す
1562
金川城主松田氏によって備前吉備津宮は焼かれる→呼び坂、散迫峠
1566
金川城主松田氏の強力な保護により備前法華宗の教線が伸びる
1568
宇喜多直家が金川城を落とし松田氏は滅びる
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