吉備の中山を守る会は備前一宮 吉備津彦神社周辺と吉備の中山の清掃・整備活動を中心に、史跡・遺跡・伝承を地域とともに伝える活動をしています。

 
●AD1573 - AD1600頃 織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代





1581

宇喜多直家が岡山城で死す
1582
羽柴秀吉が備中高松城を水攻めする→鳴谷川遺跡、水奉行の墓、清正公道
1592
宇喜多秀家が朝鮮出兵(文禄の役)の総督となる
1597
岡山城の改築が完成、市川喜左衛門が長崎で処刑される→聖ヤコボ喜左衛門顕彰碑
1598
宇喜多秀家が五大老に任ぜられる
1599
宇喜多の内紛 − 戸川肥後、宇喜多左京、岡越前、花房志摩など有力な家臣が退去する
1600
宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで破れる

●AD1600 - AD1867頃 徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、徳川慶喜が大政を奉還するまで



1600

小早川秀秋が備前と美作両国を領す
戸川達安が庭瀬藩主 − 二万九千石を領す
花房職之が高松知行所 − 八千二百二十石を領す
木下家定が足守藩主 − 二万五千石を領す
1600
小堀正次が備中代官とまって松山城に入る
1602
小早川秀秋が死去、嗣子なきため断絶
1603
池田忠継が備前一国二十八万石を領す
森 忠正が美作一国十八万六千五百石を領す
池田利隆が忠継にかわり備前を監国する
1606
宇喜多秀家が八丈島に流罪となり宇喜多氏は滅亡
1614
池田光政が岡山城内で生まれた
1615
池田忠継が死去 − 弟忠雄が岡山藩主三十一万五千二百石を領す
1617
池田光政が姫路から鳥取に移封 − 三十二万石
1632
池田忠雄が死去
1632
池田光政が岡山へ、池田忠雄の嫡子光仲が鳥取へ移封
1634
池田忠雄の旧臣渡辺一馬が河合又五郎を討つ − 伊賀越仇討
1666
岡山藩が多数の寺社を淘汰した → 一宮地区から徳寿寺以外のお寺がなくなる
1669
百間川を堀り岡山城下を洪水の害から守る
1673
閑谷学校の講堂ができた
1679
倉田新田ができ倉安川がつくられた
1684
幸島新田ができた
1687
岡山の後園(後に後楽園と改称)が造営される
1694
松山藩主水谷氏が除封となった
1697
池田家の菩提寺曹源寺が創建される、備前吉備津宮も再建される
1712
岡山藩が71の寄宮を上道郡大多羅村に統合した
1723
福田古新田がてきた
1744
板倉勝澄が松山藩主になる − 五万石
1781
〜1788 天明年間の大飢饉のとき、岡山の商人常磐屋が八大竜王の祠を奉献する
1814
黒住宗忠が黒住教を開いた→黒住教本部
1820
児島興除新田ができた
1852
児島郡福田新田ができた
1863
徳川斉昭の子茂政(徳川慶喜の弟)が岡山藩主になる
江戸の末期に三十三観音像がお祀りされる

●AD1867 - 大政奉還、AD1868 - 明治維新


1900

中山通幽が福田海(ふくでんかい)を開く→福田海、鼻ぐり塚
1930
吉備津彦神社 本殿、随神門を残し焼失
1932
犬養木堂が総理大臣になった翌年5.15事件がおこり銃弾にたおれた
1936
吉備津彦神社の社殿が再建される

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