
王藤内家宅跡
大守氏は備前の豪族難波氏の一族で、平安期から明治まで代々王藤内(大藤内)を名乗り、備前吉備津宮の社家頭(筆頭の神職)を継ぐ家柄である。屋敷は、はじめ西辛川の高室にあったが、慶長年間(1596〜1615)にこの地へ屋敷を移したと伝えられている。家宅跡は、土塀の一部と家宅跡を示す石碑を残すのみ。昭和30年代の後半までは、立派な薬医門があった。土塀に沿って積み上げられている長い石材は、昔、正面大鳥居前の川にかけられていた石橋である。
王藤内家宅跡
大守氏は備前の豪族難波氏の一族で、平安期から明治まで代々王藤内(大藤内)を名乗り、備前吉備津宮の社家頭(筆頭の神職)を継ぐ家柄である。屋敷は、はじめ西辛川の高室にあったが、慶長年間(1596〜1615)にこの地へ屋敷を移したと伝えられている。家宅跡は、土塀の一部と家宅跡を示す石碑を残すのみ。昭和30年代の後半までは、立派な薬医門があった。土塀に沿って積み上げられている長い石材は、昔、正面大鳥居前の川にかけられていた石橋である。